もっと当たり前すぎて教えてもらえなかった研究のこと.

tiharaさんから言及をいただいて,卒研当時の記憶がブワッと蘇って来たので,興味の話とは少し離れて書く.

 テーマを発展させるためには、間違いや勘違いを犯すのが近道であり、間違いを犯すためにはねばり強く「時間をかけて」問題にとり組まなければならない。実は、教員の与えるテーマというのは、そのままでは面白くも何ともないが、高い確率で「個性的に間違う」ことのできるものなのである。
間違ってるなんて,怖くて言えません.
言及されたエントリでの教官のセリフは「精度低いね.改善できないの?とりあえず動くものつくろうよ」で,二言めは疑問系であるが,主観的には「問いかけ」ではなく「非難」だった.「間違いました」「上手くいきませんでした」なんて言おうものなら機嫌を悪くされる,という状況だった.(もちろんこれは思い込みである.これが思い込みでなかったら「研究室とのミスマッチ」ではなく「単にダメな教官の所に配属された」だけの話である.)
 もし、「間違っている」にもかかわらず、テーマが発展しそうにないとしたら、それは「ありふれた間違い」だからである。どのようなテーマでも、最初の数ヶ月は、誰でも同じ間違いをする。初心者の間違いなど、類型化されている。けれども、一所懸命になればなるほど、間違いが類型を外れていき、「個性的な間違い」となる。テーマを発展させるためには作業量が必要なのである。

この必要な作業量がどれくらいかということだが、抽象的な言葉で言えば、「もうこれ以上改良の余地はないはずなのにどこがおかしいのだろう」と五回ほど途方に暮れるくらいである。それくらいの作業をこなすと、「個性的な間違い」が出る。私が修士のときには修士一年の二月まで、ずっとうまくいかない日々を送っていた。とにかく、研究というのは最初は「先が見えない」。そして、「時間がかかる」。

 なお、類型的な間違いなのか「個性的な間違い」なのかは、教員に聞けばすぐに分かる。類型的な間違いは教員の頭の中にデータベース化されているが、「個性的な間違い」はデータベース化されていないからである。

後出しで格好悪いが,上手くいかない状況を繰り返して「問題の設定からして間違っているのではないか?」という疑問は「2ヶ月くらいで」持った.持ったが,怖くて言い出せなかったのだ.それでつまらなさに拍車がかかったのだ.テーマは「動画のクラスタリング」だったが,冬休み近くまで行き詰まっていたのは「クラスタリング」ではなく「動画」・・・どころか「画像」の部分だった.もう少し具体的に書くと,テーマは「専用の技術なしに(つまり素人が市販のビデオカメラで)撮影したスポーツの試合動画をクラスタリングする」で,例えばサッカーの動画を,「フリーキック」とか「オーバーラップ」「カウンター攻撃」といった感じに動画を分ける事になる.「撮影しているカメラと選手(やボール)までの距離が未知」「そもそも一度に全員は(場合によってはボールも)映らない」「素人撮影だから画面が不安定」といった動画から選手やボールの位置を推定する,それだけで立派な研究が成立しそうな話である.ここで行き詰っているのに「(それはさっさと終わらせて)とりあえず(本題のクラスタリングが)動くものつくろうよ」と言われていたのだ.
さらに言えば,行き詰まりはあまりにも「類型的な間違い」で,人の輪郭を取りだす処理として「横方向に走査して色が変化する所を検出」といったことをやろうとして上手くいかなかったのだが,これは教科書レベルの話である.それを報告しているのに特にコメントはなかった.教官は「機械学習」や「データマイニング」の専門家だが「画像処理」の専門家ではなかった.
クラスタリングが本題なら,その手前でつまづくような画像を使うべきではないのでは」ということには卒研生だって気づく.研究の展開計画には違いないが,それは発展としてやる事だ.しかし「この画像では情報を取り出すのが難しいので別の画像にするべきでは」とは言い出せないまま時間が過ぎていった.もし言えていたら,RoboCup サッカーシミュレーションあたりが絶好の材料として使えたかもしれない.というかRoboCupの方では散々扱われているテーマなのではないか?で,卒論の時期が迫って,肝心のクラスタリングについてやっている時間がなくなり,教官に渡された先輩の論文を読んでそのやり方をほぼそのまま実装する事になった.「問いは(現実離れした広さを扱っていて)適当,手法は(先行研究の劣化コピーなので)穴だらけで,結論は(すでに拡散しすぎているので)応用がさっぱり期待できない」卒論の出来上がり.

当たり前すぎて教えられななかったこと

またしても恨み言が長くなって,脇道にそれた.タイトルに挙げた事について.

では、学術的に面白いテーマというのはどのようなものなのか。そのことを説明する前に、題名に掲げた「当たり前すぎて教えてもらえないこと」を書こうと思う。

『研究は難しい』

 これである。学生はそんなことは知っていると思うかもしれないが、どのような方向性の難しさなのかは知らないと思う。

これとセットで知っておくべき,「当たり前すぎて教えてもらえなかった」事は
『研究は間違えて良い,むしろ間違いを堂々と述べよ』
『答えは誰も知らない,当然指導教官も知らない.だから教官が間違えている事もある』
研究は難しいということ以上に「そんなのに気づかないはお前だけだ」と言われそうで怖い(だから「教えてもらえなかった」事とした).今の気分はこんな感じ.

       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\
    /   ⌒(__人__)⌒ \   <『研究は間違えて良い』
    |      |r┬-|    |   『答えは誰も知らない,教官が間違えている事もある』 

     \     `ー'´   /
           ___
       /      \
      /ノ  \   u. \ !?
    / (●)  (●)    \ 
    |   (__人__)    u.   | クスクス>
     \ u.` ⌒´      /
    ノ           \
  /´               ヽ
         ____
<クスクス   /       \!??
      /  u   ノ  \
    /      u (●)  \
    |         (__人__)|
     \    u   .` ⌒/
    ノ           \
  /´               ヽ 

ネットでも大学でも散々言われるだろうこの事も,体で理解するには結構時間がかかるかもしれない.特に指導教官が威圧的に見えたら「間違えまい」とする気持ちが働くかもしれない.


私たちの研究室では、後に入ってきた学生たちに過去の失敗者の名前をすべて実名で伝える事にしています。この実名で報告することのメリットは、大きく三つあります。第一に聞くものによりリアルで強烈なインパクトを与える事ができる。第二に興味を覚えたものがより詳しい内容を知りたいとき、失敗者本人に直接聞く事ができる。そして第三にみんな実名を出す事で、失敗とは隠すものではないという文化を作る事ができる事です。
失敗学のすすめ (講談社文庫)

失敗学のすすめ (講談社文庫)

これは事故を防止するために失敗例を継承する目的で行っている事のようだが,研究において身につけることが求められる文化でもあると思う.実名公開まではさすがに躊躇するが.この一連エントリは,「研究室をM1でやめてしまった例」を失敗として「失敗学」の真似事をしようというもの,そして失敗をさらけ出す事でいやな思い出を何とか笑い話にしてしまおうというものである.