いくつかの失望と怒り

ここ数日の,id:tikani_nemuru_Mid:NaokiTakahashiのやりとりを見ていて,どうにも消化できない気持ちが募っていたのだけれど,わざわざブログで表明するほどに整理された考えでもないし,それでも何か言いたいし,何か言うのにも慎重にしなければいけないだろうし,とモヤモヤしたりエントリを読み返したりしていたら,色々と上の空になって,今日の夕飯作りで「米をといでもいないのに炊飯器のスイッチを入れ,開けてびっくり」なんて事をやらかしてしまった.
もうとりあえず,なんか書いてちょっとスッキリする.

『神話』との戦い

「オオカミ少女はいなかった」という本を昨日読み終えた.

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険

否定されているのに事実として何度もよみがえり、テキストにさえ載る心理学の数々の迷信や誤信。それらがいかに生み出され、流布されていくのか「人間の営み」としての心理学のドラマを読み解く!

本の帯,そしてamazonの内容紹介にこのように記されたこの本では,表題のオオカミ少女,アマラとカマラの『物語』のほか,映画に宣伝が挿入されたという『サブリミナル』メッセージ,『賢い馬』クレヴァー・ハンス,知能の遺伝説に関わる『バートのデータ捏造事件』など,後に間違いと判明したり,始めから怪しいもしくは嘘であったりしたにもかかわらず,「事実」として今も持ち出されることのあるエピソードを『神話』と呼んで,それらについて検討を行った本である.とても面白かった.小さな事だが,『サブリミナル』の章は,水伝や陰謀論について考えている者に思わず苦笑いをさせるような(おそらく著者はそんなことを意図していないが)一節で締められている.

本で取り上げられている以外にも『神話』はいろいろある.日本では『血液型神話』などが随分メジャーな『神話』である.血液型(ABO式血液型)と性格との関連について,次々と「関連を肯定できない」研究結果が出されているにもかかわらず,『血液型神話』はそんなことお構いなしに,今日もテレビで雑誌で語られている.この『神話』はどうやら相当に強力なようで,血液型に関する「自己成就予言」や,「血液型ステレオタイプ」が観察できる程に,実際の日本社会に影響力を与えている.『神話』は,始めの主張の真偽など問題にせず,「(ドラえもんが本当にいたら,みたいなノリで)本当だったら嬉しい,面白い」「本当だったら都合がいい」という気持ちにより何度でも蘇る.

ここで恐ろしいのは,「血液型と性格に関連があるという仮説」が「正しかろうと間違っていようと」,『血液型神話』は現在の日本で観察可能な程度にその影響力を発揮しているということである.「○型とは性格が合わない」と公衆の面前で堂々と言う事を,本人もその周囲も重大な発言だと思ってはいないし,そのような信念の元に行動することも日常茶飯事である.

ポルノと『神話』

ポルノと性的な差別の間には『神話』は存在するのだろうか.Webでざっと検索してみた程度であるが*1,とりあえず「環境からの影響が,もともとその気がない人間さえ犯行に走らせる」という強力効果論(または環境犯罪誘因説) - Wikipediaに対しては否定的なデータが出ている.そして,「もともとそのような気持ちを持っていた者が,環境に触れることによって(その環境に触れる文脈も含めて)引き金を引かれる」という限定効果論が社会学者クラッパーにより唱えられて主流になり,そこから変化して「それでも影響を与えうる環境の強力さ」に焦点を当てた議論が出てきている.
Socius_リフレクション16
このような議論が行われている上で,強力効果論が未だに主張されているならば,これは『神話』といえるだろう.ポルノを遠ざけたいと思う人,犯罪の責任を押し付けたい人には「本当だったら都合が良い」こともあって,「正しかろうが間違っていようが」,「いくら否定しようとも」強力効果論はゾンビのように繰り返し復活を遂げるのである.もはやポルノ関係者だけが責任を持てばいい話ではない.

一方,(上のリンク先の解説において取り上げられているのはマスメディアによる影響の議論であるが,)件のid:tikani_nemuru_Mのエントリで繰り返し主張されている,性差別に関わる二次被害・三次被害に対してポルノが関わる可能性としては,「沈黙のらせん」「培養効果」は検討すべきものだと考える.

「沈黙のらせん」(spiral of silence)もその過程はやや込み入っている。これは世論形成についての影響である。世論のもとになるのは個人の意見である。しかし、人びとは自分の意見をストレートに表現はしない。まず自分の意見が多数派か少数派かを確認するのである。自分の意見が少数派・劣勢意見であれば、孤立を避けるために意見表明は控えられ、逆に多数派・優勢意見であれば、積極的に表明される。では世論の場合、人びとは何を基準に多数派か少数派かを判断するのか。その基準となるのがマス・メディアなのである。さまざまなマス・メディアが特定の意見を多数派・優勢意見として提示することによって、反対意見は表明されにくくなり(沈黙)、そのため反対意見はますます少数派として認知されることになる。その結果、多数派はますます多数に、少数派はますます少数に見えるようになる。つまり世論の環境をマス・メディアがよってたかって固めてしまうのだ。そのため受け手の議論の範囲が事実上限定されてしまう。「天皇報道」や「湾岸戦争報道」のように「総ジャーナリズム状況」とか「パック・ジャーナリズム」といわれる集中豪雨的取材報道がなされるとき作用しているのがこの「沈黙のらせん」であり、そのとき「はだかの王様」を「はだかだ!」と名指すことが極度に困難な環境になってしまう。

これを時間軸に見たのが「培養効果」(cultivation effect)である。たとえば、どのテレビドラマでも登場する老人像が片寄っていることが多い。「がんこで融通の利かない老人」のイメージである。そのため長時間テレビドラマを視聴しつづけた受け手で、直接さまざまな老人と接するチャンスのない人は、このような老人像によって現実を捉える傾向が、テレビドラマをあまり見ない人にくらべて強くなるのである。このようにマス・メディアは長期的かつ累積的かつ非意図的に人びとに行動の基準や価値観を「培養」するのである。
Socius_リフレクション16より

女性に対する差別や,その正当化のためにでっち上げられた「ステレオタイプ」が根強く残っている社会環境においては,ポルノはそのようなステレオタイプを維持するように「沈黙のらせん」や「培養効果」に加担する可能性を持っていて,泣き寝入りや被害者に向けた理不尽な攻撃を助長するように「受容されるかもしれない」,ということである.
今回問題となったタイトルに関して言えば,そういえば,『レイプ神話』っていうのもあるんだっけ?ゲームのゴールは『レイプ神話』の再生産に加担しているのかもしれない.(レイプレイ騒動その3】フェミニスト団体、日本政府に販売禁止を要求 - Suzacu Late Showにある抗議文に書かれたゲームの内容を信じるならば.ここまできて無責任な事ではあるが,僕はこのゲームをプレイしておらず中身を知らない.)

受け手の自律的な反省的コミュニケーションが困難になっている。しかも、それは個々の送り手サイドも意図していない──つまり送り手さえもコントロールできない──形で生じているのだ。マス・コミュニケーションをもふくんだわたしたちのコミュニケーション総体のありようを見直すことが格別に必要なのはこのためである。
Socius_リフレクション16より

ひとつの失望

id:tikani_nemuru_M腰を据えて回り道をするとエントリで宣言した時,僕は例えば上のような,社会学などの面から「ポルノと性差別」について考察するのだと思った.(というか,改めてエントリを見直せば,同じSociusを引用しているじゃないか)

ポルノが差別を助長,維持するものとして「受容される」には,どんな文脈が社会に存在していることが前提となるのか.

ユダヤ人や黒人に対する迫害」「ベトナム戦争のヒーロー」「神風特攻隊」などを描写したものは,人種差別や戦争を助長するものとして「受容される」のか.ここにポルノを並べたとして,それぞれに違いがあるのなら,そこにある社会的な文脈の違いは何なのか.

『神話』が受容される文脈を変え,例えばオオカミ少女が「ジャングル・ブック」「ターザン」などと並ぶ「楽しいフィクション」に,「サブリミナルメッセージ」がSFに,「クレヴァー・ハンス」が手品のトリック解説になる日は来るのか.同様に,ポルノが差別を助長しない形で「受容される」社会とはどんな社会なのか.

正確に言えば,この宣言(6月3日)の時点では,僕は「オオカミ少女はいなかった」を呼んでおらず,従って『神話』との絡みでこの問題を考える発想はなかった.単に,強力効果論や,クラッパーの限定効果説に立ち戻って,ポルノが「どのように,どの程度」差別を助長するのかという事を,じっくりと見直すのだと期待した.

もちろん,僕が一人で勝手な期待を持ち,勝手に失望したのであるが,id:tikani_nemuru_Mの次のエントリは司法や権力の話に戻っていた.あんたの腰は1日で据わるのかと毒づきたくなった.僕のこのエントリで法規制の話がここまで全く出てきていないように,ポルノと差別の話をするときに(特に二次被害,三次被害に関わる「構造的な差別」の話では)法の出番はない.

確かに,id:NaokiTakahashiのエントリでは法規制の話をしていた.しかしそれは,id:NaokiTakahashiなどポルノに関わる仕事をしている人が「法の問題ではないものに法を滑り込ませようと手を変え品を変え自由を奪おうとする勢力と常に対峙している」からだ.id:tikani_nemuru_Mが法規制に反対で,しかも腰を据えてこの問題を考えるというのならば,法の話なんかしばらく放っておけばいいのに.

もうひとつの失望と怒り

この問題は色々なところに飛び火して,全体をフォローするのは難しい.どこかで出てきた発言を見逃している事もあると思う.それでも,これらのコメントを見て悲しかった.

complex_cat sexuality, expression, human rights, sexual violence 規制派も反対派も賛否はともかく十分着いていける論考だと個人的には思ったのだけれど違うみたい。
T-3don 議論, 差別, 人権, コメント欄 二次・三次加害を防ぐ為、まず必要な事は社会の意識や差別構造に直接働きかける事。至極真っ当で当たり前の結論。/ここまで分かりやすく書かれてなお通じない。人間の人間であることの哀しみとおもしろさ。
はてなブックマーク - 法規制になじまない人権侵害 - 地下生活者の手遊び

たかが100文字のコメントだから,これらのコメントの意図を把握できているかどうかはわからないけども,概ね「id:NaokiTakahashiなどの規制反対派は,『まっとうで当たり前の結論』さえ理解していない」という判断を表明したのだと解釈した.

そんなまっとうで当たり前の話が「ポルノ表現者に限って」「言わない=知らない」とみなすに至った理由はなんだ?言い換えれば,「その程度の了解も無いとみなすなんて,随分と傲慢じゃないか?」

余計な言い訳をすると,id:conplex_catid:T-3donがこの議論で別段目立った役割を担っているわけではない.目に付いたのは単に,僕がお気に入りブックマークに入れていること,そして普段ニセ科学の話を積極的に考えていることが理由だ.

「あえて言う」こと,「紐付きの」自由

この話題の番外編なのかどうか判らないけども,「ある話題が続いているところに,殊更に無関心を表明する事はどんな意味を持つか」という話がid:NaokiTakahashiの周辺でこの話題の最中に出ていた.

無関心の表明とは逆だが,ポルノ関係者が「性差別に伴う二次・三次加害について憂慮している」とあえて触れ回ることは,どんな印象,どんな効果を与えうるか.または「言わない」ことはどんな効果を与えうるか.

「ポルノ表現者が性差別やその害について憂慮しているとは思えない」というのは,偏見だ.少なくとも,ポルノ表現を行う事と性差別の問題に対する意識の高さの関係について,一般的に何かを言うだけの根拠はないはずだ.(仮説を言う事は出来る.認知的不協和などから意識が低いと考える事は出来るし,id:NaokiTakahashiの個別の話にしてしまえば,ポルノ表現を仕事にしているからこそ,強力効果論などの話に関心を持つし,法規制やわいせつの話も積極的に調べており,むしろ意識が高まっていると主張する事も出来るだろう)
「ポルノ表現をするならば,性差別やその害について,一般よりも高い意識を表明することを求める」という「紐付きの」表現の自由は,ポルノ表現への偏見に基づいた主張だ.(id:NaokiTakahashiは紐付きの自由を拒否している)

「言うまでも無い事」を

少し回り道をして,たとえ話に挑戦してみる.ホメオパシーに関して,効果が無い事や理論が間違っている事,それでも「現在では治る見込みの無い病気に対して,わらにもすがる思いでホメオパシーを行おうとする人の気持ち」は無碍に出来ないだろうという事は,たとえばid:tikani_nemuru_Mなどは了承しているだろうと思う.

ここで,架空の主張だが,「医師と本人,その家族の間で十分な理解と了承があれば,ホメオパシーに保険を適用してもいいのではないか.実際に,保険が適用されている国もあるのだし」という主張を発端として,終末医療におけるホメオパシーの話題が行われているとしよう.そこでは,ホメオパシー自体の効果についての話や,「そもそも十分な理解と了承と言う仮定が現実的でない」とか,「仮定を認めても保険の適用にはふさわしくない」といった意見が出てくるだろう.

そこに「現代の科学を過信しすぎている.科学は万能ではない.現在効果が証明できていないからと言って,求める人がいるホメオパシーを切り捨てるのは良くない.終末医療において,ホメオパシーで救われる人もいるのだ」と言う意見を表明するものが現れたら,なんと応えるだろうか.

まずは「科学が万能だと思っている人なんて,ここにはいませんよ」という返答があるだろう.科学が万能でない事なんて「当たり前の話」だから,その場の人たちはわざわざ言ったりしない.
そこで「あなたたちは科学に強い興味があるのだから(もしくは,科学を使っているのだから)科学が万能ではない事により注意して発言しなければならない」と言われたら,「科学が万能ではないと言う意見にも一理あります」と,このシチュエーションでわざわざ言い出すやつが現れたら,どうする?

ホメオパシーで救われる人」についてはどうか.前述の通り,ある程度ホメオパシーについて継続的な議論を交わしている人たちならば,「わらにもすがる本人」の気持ちは尊重すべきだと思っているだろう.それを否定するのでは全く無い.これも「言うまでも無い事」だ.しかし,それを理由としてホメオパシーを広げようと言う主張には「そういう人たちをダシにするな」と応えるのではないだろうか.

往々にして,こういうところに首を突っ込んで,わざわざ「科学は万能ではない」などと言い出す場合,言う側のほうが科学を過大評価していたり,それまでに積み上げられた議論,話題が続いている文脈と言ったものをすっぱり無視していたりする.


元の話題に戻って(そして怒りに任せて)言うならば,id:tikani_nemuru_Mやコメントを引用した2人は,この話題(id:NaokiTakahashiのポルノ規制と差別の話題)において,「科学は万能ではない」と首を突っ込む側と重なって見えた.ポルノ表現者が差別に対してどう考えているのかについて拙速に判断し,(ポルノ規制における)法の運用の現状についてあまり気を配っておらず,法規制に賛成するものの「理屈」に賛成する事に対して過剰に楽観的である(id:NaokiTakahashiが「武器を与えるな」と主張する点).

女性は差別に怯え,ポルノは権力に怯える

id:tikani_nemuru_Mは再三にわたって,「女性は未だに性差別に怯える存在であり,ポルノは抑圧的に働く」と主張する.id:NaokiTakahashiもその点には同意していて,(少なくとも,無制限に氾濫した場合は)ポルノが女性を傷つけることは了解しているだろう.多くの女性は,ポルノを含む有形無形の「消えない性差別」に怯えなければならない現状に置かれている.これを解消する事は皆が力をあわせて取り組まなければいけない課題である.それは「ポルノ表現者かどうかは全く関係なく」当たり前のことである.「女性が怯えているものについて配慮がない(もしくは足りない)」などと言われる筋合いは(それを直接表明したのでなければ)無いはずだ.id:NaokiTakahashiに限れば,(権力が一切絡んでこない限りは)表現の自由と差別を受けない自由(権利)は同じ人権の構成要素であって完全にイーブンだと考えているはずで,それらが明確に衝突しているならば,無制限に表現の自由を要求しないだろう.

にもかかわらず,id:NaokiTakahashiが法規制にわずかでも与する主張を頑として受け付けないのはなぜか.それは,(僕の想像できる限りでは)ポルノが「権力に怯える存在」だからである.
id:tikani_nemuru_Mがどの時点からid:NaokiTakahashiのエントリを参照しているのかはわからないが,id:NaokiTakahashiのエントリでは何度も「沙織事件」や「松文館裁判」の話が出ている.
現状の法(そして権力)の運営においては,「未成年がゲームソフトを万引きした」話が,「万引きされた側のソフト製作者が逮捕される」話になり,
沙織事件 - Wikipedia
成人向けマンガに対する苦情の手紙を議員に送ったことを発端にして,「別の」マンガがわいせつ物とされて逮捕され,
松文館裁判
アダルトビデオなどの所持は「性根」の問題にされて濡れ衣のきっかけになる.
e-politics - 刑法・刑事政策/足利冤罪事件

どんな「ヘリクツ」からもポルノに対する権力の介入がありうるような状況において,そしてそのような立場に置かれている人物のもとで進んでいる話題の中で,「自分は法規制に反対だけど」がエクスキューズになりうると思うのか.「規制派の主張にも一理ある」と表明することがどれだけポルノ表現者を恐れさせるか.「ホメオパシーで救われた人もいる」と何が違うんだ.「自分をダシに」規制への寛容さを求めるのか.

id:NaokiTakahashiは「強さ」を(たぶん意識的に)見せているけれども,ポルノ表現者は今,この社会で,権力に怯えている.「産む機械」「元気がある」と議員が言ったら(少なくとも表面上は)非難の嵐だが,「ポルノは問題だね」と言ったら『自主規制』なのだ.

今回の話題で書き込まれたid:NaokiTakahashiのエントリやコメントとid:NaokiTakahashiがシナリオを書いた適当な(!)エロゲーを持ち出して,「女性への差別に配慮する意思は見られず,わいせつの動機に疑いは無い」とか言って有罪にすることだって出来る・・・かもしれない.笑えない冗談だ(下手すれば冗談じゃなくリスクの一つだ)

ポルノと(法の範囲でない)差別の話をしたいのなら,判例やら法令やらを延々と持ち出すのは「表現者が怯えているものについて配慮がない(もしくは足りない)」と,僕は思う.

3時だ

モヤモヤを晴らそうと思ったら日付変わっちゃった.

*1:この件でいろいろ検索したが,後述の「沙織事件」について関連のWikipedia他で全く(または大部分が)同一の文章が見つかった.これはなんだろう?同じ人がいろんな所で書いているのか,コピペが横行しているのか?